桐蔭高校

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校長室の窓から

「自ら人生を切り拓く」(H31年3月1日)


「自ら人生を切り拓く」      卒業式式辞  雑誌桐蔭 寄稿文   平成31年3月1日
                                    


 140年前の明治12年3月1日、本校前身の和歌山中学校が市内岡山に開設されました。今日は、和中・桐蔭にとって140歳の誕生日となります。記念すべき佳き日に、この学舎から新たな世界に向けて旅立たれる普通科71期、数理科学科26期の皆さん、ご卒業おめでとうございます。


 月並みな表現ですが、皆さんは「平成最後の高校卒業生」であり、20世紀生まれと21世紀生まれからなる、世紀をまたぐ学年でもありました。人生100年時代が現実的となった今、皆さん方の多くは、次の22世紀でも元気に活躍しているだろうと羨ましく思います。


 さて、「平成」とはどういう時代であったか。一つ前の「昭和」は戦争へとまっしぐらに進んでいった初めの20年間、そして戦後の復興、経済成長と駆け上がっていった後の約40年間と、一直線のイメージがあるのに対し、「平成」は数学の関数曲線のようで、グラフの極点に大きな災害や事件、社会変化があったと見られることから、方向性が曖昧な変動の時代といえます。


 この平成を代表するエンターテイナーに「国民的グループ」と称されたスマップをあげる人は多いと思います。「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」で始まる「世界に一つだけの花」は、皆さんが物心ついた頃の大ヒット曲ですが、先行き不透明となっていた当時、こういう生き方もあるのだと一筋の光明となり、勇気づけられた人も多かったのではないでしょうか。人は生まれた時、様々な才能の芽が与えられています。それをどう開花させるか。努力し、磨いていくことで、オンリーワンにもナンバーワンにもなれます。人間は可能性の幅が広いことが特徴の生き物といえますが、その秘密は発達した脳にあります。脳のどの部分をどう活性化させるかで、その人の行動や精神が変わり、周囲の人や社会さえも変えることができるということです。


 さて、近未来について様々な予測がなされています。皆さんは将来に悲観的な思いは持っていないだろうし、持つ必要はないと思います。これまでも人類は環境や社会の変化に対応してきたからです。ただし、変化のスピードは格段に速くなります。その兆しは既に数十年前から始まっています。ネットショップで世界のトップシェアを誇る中国のアリババグループ創業者、ジャック・マーは1964年に中国杭州に生まれ、大学受験に3度も失敗し、周りからは「絶対に成功しない」といわれた人物です。なぜアリババは急成長できたのか。マーは「成功したいと願う若者を支援し、彼らにどんどん活躍してもらった」ことをあげています。「すでに成功している人」よりも「成功したいと思っている人」にチャンスを与えたほうがうまくいくとも言っています。変化には一定の苦痛が伴いますが、人が変わらなければ世の中も変わりません。「屋根を修理するなら、日が照っているうちに限る」といいますが、「アリババは、成功しているときに、それまでのやり方を変え、あえて成功モデルを捨てることで生き残ってきた」とマーは言っています。これが、変化の激しい時代の生き方の一つのようです。このような変化を歓迎する文化は、アリババだけではなくアップルやグーグル、アマゾンなど、世界市場を席巻している企業に共通しています。


 戦後日本の政治学や思想史研究をリードしてきた丸山真男の名著『日本の思想』に、「「である」ことと「する」こと」という有名な章があり、民法の「時効」の話から始まります。人に金を貸しても「返してくれ」と催促しないでいると、いつかは時効が成立し、返金を要求する権利(債権)さえ失ってしまう。「(催促)する(行為)」が「(債権者)である(立場や地位)」を保証していることから、権利を有していると慢心し、行動しない「権利の上に眠る者」は、法の保護を受けられずに権利を失することになるという警告です。この「する」ことによって「である」ことが保証されるというロジックは、憲法の国民主権と基本的人権にもあてはまります。憲法第12条に「自由及び権利は国民の不断の努力により保持しなければならない」、第97条に「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と記されているように、自由や権利を持ち続けようと努めることで、主権者であることが保たれているのです。


 一方で、政治のことを考えることや選挙で誰に投票するかは、明快な答えが得がたいので、ジレンマを感じ、躊躇するかもしれません。しかし、具体的な行動や思考を疎かにして社会の空気や人任せにした結果、国民自ら独裁者を選んでしまい、主権を失ってしまった悲しい歴史は何度も繰り返されています。これから主権者としての責任ある振る舞いが求められる皆さん、「権利の上に眠る者」とならないよう、このことを肝に銘じてください。


 ところで、昨今、日本の大学では「すぐに役立つ即戦力を養成するべき」という潮流が強まり、教養教育よりも、低学年から専門教育や実学に力を入れるようになっています。また、一部の文系学部は不要という意見さえも取りざたされています。この成果主義のなか、学生の気質も変わってきているといわれます。レポートを課すと、みんなが評価軸に沿った同じようなレポートを提出してきたり、就職で作成するエントリシートがワンパターン化していたり等、自分が何をやったかをアピールすることより、どうすれば人並みの評価が得られるかに懸命になっています。


 その結果、最近の学生は専門は知っているが、創造性や自主性が低下しているといった声をよく聞きます。一番大きな問題は、評価ばかりを気にしている学生は他人が作った問題は解けるが自分で課題を発見できないことや、「何故このような研究をしているのか」「この学問が世界をどう変えていくのか」「社会や世界の要請に自分はどう応えようとしているのか」等、根本的な問いを発することや思索することが出来ないことです。


 これまで皆さんは、決められたことや与えられたことを日々こなしながら成長してきました。分岐点はあったかもしれないけれど、敷かれたレールの上を進んできたといえます。最近は、希望する大学に合格することが、何よりも優先すべきことであったと思います。しかし、実際に入学したら、苦労して入学したという達成感は割と早く色あせます。その大学の学生であるという帰属意識による満足感は、たとえ最難関の東京大学や医学部医学科の学生であったとしても、そう長続きはしないと思います。早晩、「この集団のなかで、個人的にはどうなのか」「自分は何をしているのか、何をしようとしているのか」という疑問が、湧き上がってくるものです。このことは大学卒業後に誰もがうらやむ大企業に入っても同じです。かつてのような右肩上がりの経済成長が続く時代だったら、そのような疑問や問いを押しとどめることはできたかもしれませんが、これからの時代では「私の生きる意味は何なのか」という根源的な問いに向き合うことや、「そんなふうに生きていて何の価値があるのか」にふと思いあたったとき、どんな人でも超越的な意味が欲しくなるといわれます。しかし、そう思っても、決して、カルトや過激なテロリズムに、その解はないということは強く断言しておきます。


 そこで見直されるのは、文化や古典などの教養の価値や役割です。教養は何かの役に立つから身につけるというものではありません。むしろ、教養を身につける過程において、過去の偉人の思考と自分の思考を比べることで、自分自身について学んだり、自分がどういう考えかたをしているかを知ったり、自分と社会や自然との関係について自覚を持てるようになります。それが教養を身につける意味です。そして、教養が備わっているとは、「こうなりたい。こうでありたい」という自覚を持ち、自分の欠点や逆に長所も見えてきて、視野も広がった状態だということです。


 皆さんはこの桐蔭で、古文、歴史、倫理、微積、物理など、様々な科目を学ぶ機会を得ました。殆どの人が国公立大学を目指すなか、どの科目も疎かにすることができない環境に身を置くことになりました。このことが、桐蔭で3年間を過ごした最も大きな意味を持っています。よもや、漢文や古文を知ったって役にたたないからと受験が終わればポイッと捨て去ろうとか、理系に進む者以外は微積や物理は学ぶ意味がないとは思ってはいないでしょうね。皆さん方が受験勉強だと思ってやっていたことは、これから教養を身につけるための準備だったのです。高校を卒業するとは、ようやく教養を身につける入口に立ったということです。


 生きることの超越的な意味を見いだし、人生、こう生きたいという確信を持つ営みは、これからが本番、正念場です。本当の意味での教養を兼ね備えた人となるように精進してください。 


 最後に、桐蔭卒業を誇りとするのではなく、母校桐蔭や後輩の桐蔭生が誇りと思える生き方を追求しなさい。それが桐蔭のポリシー「自ら人生を切り拓く」ということです。
 本日、大いなる自信と勇気、覚悟を胸に秘めて、勢いよくこの学び舎を飛び立ってください。


             

「受験勉強に頭に来ていた諸氏諸嬢ならびに受験勉強に頭に来ている諸君 古典を楽しもう」(H31年2月2


受験勉強に頭に来ていた諸氏諸嬢
ならびに受験勉強に頭に来ている諸君
古典を楽しもう』  
                   

図書館誌 芸亭 寄稿文  平成31年1月16日
                                                               


 クール・ジャパンという言葉が使われるようになってかなりの時間がたちました。外国人がクール(かっこいい、感じがいい)と感じる日本の魅力は、よく知られたアニメ・マンガ・ゲーム以外にも、和食、寺社・仏閣等の歴史、歌舞伎等の芸能、音楽、アイドル、化粧品等の高品質な製品、おもてなし等、多岐にわたります。外国人が関心を抱く対象は地域(民族)性で違うようで、どの地域からのインバウンド(訪日外国人)がどのような場所に多いのかで、大凡の傾向はわかります。



 我が国の工芸や芸術が海外で注目されるのは、今に始まったことではありません。江戸時代、古伊万里や有田焼などの日本の磁器はヨーロッパで高い人気を誇りました。このブームがドイツの高級陶器「マイセン」の誕生につながったようです。また、日本から陶磁器を船で運ぶ際、壊れないように紙で丁寧に保護されていました。そのなかには浮世絵が刷られた紙も流用されていたため、浮世絵が目に触れることになり、その大胆な構図はフランスを中心としたヨーロッパ絵画界に大きな影響を与えました。
 

 我が国では従来型産業が精彩を欠くなか、クールジャパンに乗っかって、「日本の魅力」を外国人に消費してもらい、経済成長や地域活性化につなげようという国家戦略が進められています。この戦略には、お金に換えられることが一番だという経済至上主義が透けて見えます。外国人受けに追随し、売れるものをばら売り、切り売りしていることにならないかと危惧します。クールジャパンの各要素には、我が国の固有あるいは特徴的な文化、風土、歴史に基づいたものが多くあります。これらは長年かけて、先人達が創造し、洗練してきたものが多く含まれます。私たちが真の日本の良さを継承できないでいると、クール・ジャパンがブームとして終わった後、文化や精神が荒廃した国や国民が残ることにはならないだろうかとも思います。


 あなた方は、古文や歴史上の文化を、国語や日本史の授業で学び、受験に対応できる知識を獲得していると思いますが、その教科書等に描かれている内容や情景はストンと腑に落ちているでしょうか。無理に飲み込んだような理解になっていないでしょうか。違和感を覚えているような人に、清少納言の『枕草子』の、異色の全訳本として知られる、橋本治著『桃尻語訳 枕草子』を紹介します。


 この本の異色であるのは、教科書や参考書とは違って、女子高校生特有の言い回し=橋本氏のいうところの桃尻語で言い換えているところです。あたかも、清少納言が一女子高校生で、感じたまま(本音)を、一人称でペラペラと喋っているような感じに訳されています。しかし、原文から逸脱することなく、それでいて心憎いほどの躍動感を感じさせます。


 例えば、誰もが知っている「春は曙」から始まる第一段において、文法や重要語句など、古典学習のポイントが詰まっていると言われる、【まいて雁などのつらねたるがいと小さく見ゆるはいとをかし】を、一般的な古典の参考書では、「まして雁などが連なっているのが、とても小さく見えるのは、とても趣深い」と訳されていますが、桃尻語訳では「ま・し・て・よ・ね。雁なんかのつながったのがすっごく小さく見えるのは、すっごく素敵!」となっていて、私的にはその光景が鮮やかに浮かんできます。


 このような表現が可能となったのは、著者が解説に書いているように、清少納言がミーハー、センチメンタル、小姑根性のような価値観を持ちながら、観察力が鋭く、知性を獲得した女性という捉え方をしているからだと思います。この本の真髄は個性的な訳文だけではなく、[註]に当時の習慣、服装、人物関係などが詳しく説明されていて、読むことについつい引き込まれてしまうことです。


 この本の扉には次のような著者からのメッセージが添えられています。

 「とりあえずは、受験勉強に頭に来ていた諸氏諸嬢、ならびに受験勉強に頭に来ている諸君へ―」 

 古典や日本史で扱う文化を受験勉強という枠組みに押し込めるだけではなく、千年を超えた今でも、瑞々しく伝わるような感性を働かせて読むことが大事だと思います。読むことの本質はとはそういうことだと思います。
             

「桜梅桃李(おうばいとうり)」(H31年2月28日)


「桜梅桃李(おうばいとうり)」  PTA新聞 寄稿         平成30年12月20日

    

 あと2ヶ月となった「平成」には、国の内外、天地ともに平和が達成するという願いが込められていました。昭和の終わり頃、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされ、日本人は自信に満ち溢れていました。平成になって、バブル経済の崩壊、地下鉄サリン事件、銀行や証券会社の大型倒産、東日本大震災等々、不確定・不安定な問題が噴出し、「生きづらさ」がキーワードとしてあげられる時代となります。そして、私は何のために生きているのかといった、内的、精神的なものが大きな意味を持つようになったといわれます。 

 

 表題にあげた桜梅桃李(おうばいとうり)は、桜は華やかに一時に咲けばいいし、梅は寒風の中、凛とした花を咲かせればいいというように、それぞれの良さを大切にしなさいという思いが込められています。人も同じで、自分が持って生まれた可能性、生かされている命を生き抜くことがすばらしいわけですが、それは容易なことではありません。 


 平成の初め頃、若者は生きづらい世の中で、自分を生かす場がないと感じても、「本当の自分」はどこかにあるはずと信じ、自分探しに彷徨する風潮がありました。それは、自分の可能性を信じることが出来ていたからといえます。しかし、平成も後半になってくると、自分は思っていたほど美しい存在ではないと思う若者が増え、極力、「自分」を表に出そうとしない生き方が多くなっているといわれます。このことが若者の自己信頼感の低下とつながっているのかもしれません。 


  自分探しは、「自分の存在意義や意味」を見いだすことでもありますが、それは、他者との関係において認識できることでもあります。「自分の存在意義や意味」は数字や指標で示されるものではありません。自分が居るから、家族やグループが安定している、うまく回っているということに気付いたとき、何となく見えてくるようなものだと思います。 新しい時代においては、「生きる意味を自らつくる」という気概で、人や社会に積極的に関わることや、「答えのない問い」に挑戦する真の学びを追求してください。きっと、「なくてはならない自分」を見つけることができます。               

『新たな時代へ展望を切り拓く』(H30年10月6日)


 『新たな時代へ展望を切り拓く』

                     平成30年10月1日発行 PTA新聞「とういん」から


 桐蔭生にとって「文武両道」は尊敬や憧れを感じる“生き方”といえます。その深層には、勉強一辺倒ではなく、部活動に夢中になりながらも同程度の成績を収めることが自身の能力の高さを証明することになるという、青年期特有の意識(マインドセット)があるのかもしれませんが。

 学校は毎年、教育方針や教育計画をまとめた「学校要覧」を作成しています。過去の学校要覧を繰ってみて、校訓が「文武両道」と記されているのは平成14年度以降ということに驚きを禁じえません。部活動にいそしみながらも、学業を怠らず、そして、こだわりを持った進路希望を叶えるという、ある種、バンカラ的な“生き方”は、往時の和中生や桐蔭生には当然の文化であり、校訓として文字にする必要がなかったのかもしれません。例え、文字にはなっていなくても、積み重ねによって誰もが意識し、うまく機能しているのが「伝統」です。一方、時代や社会が変わるなか、主体的・積極的に変えようとするのが「改革」です。今、桐蔭は局面をより良い方向に打開し、新たな展望を切り拓くことに取り組んでいます。

 今年、桐蔭高校となって71年目ですが、この間、桐蔭を取り巻く変化で最も大きかったのは、今から40年前の和歌山市内に南北学区が設定されたことです。その後、桐蔭高校の進学実績の復興の声が高まり、28年前に学区を越えて出願できる数理科学科が設置され、翌年以降、2学期制や65分授業が導入されていきます。16年前の普通科通学区の撤廃や12年前の桐蔭中学校の併設等もありますが、現在の桐蔭の教育システムの基本は、数理科学科が設置された平成初期の枠組みを引き継いでいます。

 この間、学習指導要領は3回改訂され、ゆとり教育を巡る論争を初め、学力観や学びの在り方などが変わってきましたが、最も重大なことは急速に少子化が進んだことです。今春、中学校を卒業した県内の生徒数は9000人を下回りましたが、これは数理科学科が設置された当時の半分以下の数です。少子化の課題は子どもの数がただ減少しただけでなく、将来展望をしっかり持った子ども、社会的に成熟した子ども、良い意味での“ゴツゴツ”子どもが、大きく減少したことでもあります。

 このようなことから、平成初期に作られた教育システムの特性や利点が、約30年を経過した今日、十分に機能しなくなり、改編が必要となっています。その一つが、県教育委員会が次年度から数理科学科の募集を停止するという決定です。このタイミングに合わせて、教育課程や学習集団の構成、授業時間等を変更して、「新たな普通科」の教育システムを構築することにしました。このことは、高校だけではなく、桐蔭中学校の課題、例えば、学力層の固定や人間関係の狭さなどの改善にもつながり、普通科に接続する桐蔭中学校ならではの利点を更に活かすことが出来ると考えます。

 そして、この新たな教育システムに「桐蔭の文武両道」や、在り方や生き方を追求する「桐蔭のキャリア教育」等、これまで培ってきた桐蔭の教育文化を融合させることが重要です。そのことで、各界のトップリーダーとして活躍する素地を持った人材を多く輩出する学校として、これからも進化し続けることができ、広く和歌山県民の期待にお応えできると思います。

 2年後の「新たな大学入試制度」と、その背景にある高校と大学が一体となった教育改革が始まろうとしています。これは、先行きの不透明な時代であるからこそ、多様な人々と協力しながら主体性を持って人生を切り開いていく力が必要との考えが根底にあり、高校教育を大きく変えなければならないとの認識があります。

 システムの改編はその第一歩であり、到達点ではありません。学校、教職員がどのような意識と覚悟で、改編を本物とするか、本気に取り組むかが迫られています。どうか関心とご期待をお願いします。


               

『社会の変革期、学びを変えよう』(H30年7月20日)

 『社会の変革期、学びを変えよう』                              

                          平成30年7月20日発行生徒会新聞「桐蔭新聞」から


 今年、本校は前身の旧制和歌山中学校創設から数えて140年目を迎え、来年秋に周年行事が計画されています。また、戦後の学制改革で「桐蔭高校」となってから71年目で、校史の半分以上を占めるようになりました。正門すぐ横の「改革と伝統」と刻まれた120周年記念モニュメントは、進取・変革を追い求めながら、古(いにしえ)・伝統を大切にするという、一見、相反することに挑戦してきた学校としての在り様を示しています。

 さて、今、私たちは、人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボティクス等の先端技術が高度化してあらゆる産業や社会構造に取り入れられ、新たな価値が産み出される社会の入り口にあります。急激な変化を怯えるだけではなく、人間としての強みはどこにあるか、新たな社会での学びや仕事にどう対峙すればよいか等、本質的な問いと向き合うことが求められています。今後、求められる力としては「文章や情報を正確に読み解き、対話する力」、「科学的に思考・吟味し活用する力」、「価値を見つけ生み出す感性と力」があげられます。
 桐蔭では、一人一人の生徒が将来にわたってキャリアを形成していく上で、「学力=学ぶ力」が大きなウエイトを占めると考えています。「学力」向上には質の高い授業が必須であるとして、数年前から桐蔭FD(ファカルティ・ディベロプメント)と名付けた授業改善に取り組んでいます。
 その一環で6月後半だけで25件の研究・公開授業が実施され、私はほぼ全ての授業を最初のチャイムから終わりまで参観しました。これは皆さん方と同じ視点で、65分間、集中して学習に取り組めるか、知的好奇心がどう活性化されるか等を感じ取りたかったからです。
 出来の良いドラマのように引き込まれる授業や、「この授業はしっかり聴かんと損や」という皆さんの真剣な眼差しを感じる授業にも出会えました。総じて、「桐蔭の授業は変わりつつある」と確かな手応えを感じました。
 これまでの課題の一つに、65分間で教科書の隅々まで扱おうとする、いわゆる教え込み過ぎの弊害があったと思います。先生が一方的に知識を伝達するタイプの授業では、授業中、わかった気にさせてくれるかもしれません。しかし、後々、自力でその知識を再現したり、応用することが出来ない人も少なくありません。つまり、長い時間と労力をかけて勉強しても、ペーパーテストで計る学力でさえ、十分に身についていないということです。さらに、このような知識伝達型の授業は、一部の生徒にとっては分かりきった内容で、とても退屈に感じたり、思考を活性化できていなかったりします。
 そこで、桐蔭FDでは、生徒が授業中、主体的な学習活動を多く行うことで、より深い学びに到達することを目標とした授業改善に取り組んでいます。最近参観した授業においても、教科書や資料を読み取って関係性や関連性を発表しあう活動、課題への見解や問題の解き方を互いに評価しあう活動、授業内容のふり返りと再構築を80字にまとめて報告しあう活動等を多く見ることが出来ました。
 このような活動の第一義的な狙いは、授業中、皆さんが頭をしっかり働かせ、思考力や表現力を向上させるということです。そして、付随して期待できる効果として、他の生徒の発表を聞いたり、学習内容について話し合うことを通じて、自分の足らざることに気付かされることです。例えば、基礎基本の知識・技能の修得が曖昧であること、観察や洞察の力が弱いこと、表現スキルが稚拙であること等です。
 足らざることを自覚すれば、しっかり身につけなければという意識が生まれ、自発的かつ具体的な学習行動に結びつくことが期待できます。自分の思いや考えをより良く伝え、理解・共感してもらうために、使える語彙・単語をさらに豊富にしようとか、文法や公式・定理等をサクサクと使いこなせるように練習しようということです。自分の足らざる点を自覚できることは、様々な偉才が集まる桐蔭で学ぶ、最大のメリットだと思います。
 基礎基本のスキルが底上げされ、自己向上の意識や意欲が備わった生徒は、優れた能動的学習者(アクティブ・ラーナー)と言えます。アクティブ・ラーナーが主体的・対話的な学習活動を行うことでより深い学びへと誘われ、将来のキャリア形成に重要な「学力」の獲得につながります。
 今、教室は、教える教師と教えられる生徒の一方通行関係の場から、生徒が相互に影響を及ぼし合いながら深く学ぶ場へと変わろうとしています。この流れが加速されるかどうかは、皆さん方の学習者としての質の高さによります。受け身の学びでは、学習成果は頭打ちになります。より良い学び方を獲得し、キャリアの可能性を広げることが出来るかどうか。それは、あなた方の学びの姿勢に委ねられています。  
                

新たな『改革と伝統』へ(H30年7月2日)

新たな『改革と伝統』へ                      H30.7.1


 6月末、(県)教育委員会は桐蔭高等学校の学科改編について、『平成31年度県立高等学校入学者選抜以降、数理科学科の募集を停止する』と発表しました。

 かつて、普通科入学選抜に学区制が敷かれていたため、本校を志願できる生徒は居住地によって限られていました。全県から学区を越えて受検可能な専門学科として、平成3年に本校に数理科学科が設けられました。

 数理科学科は1年次から数学や理科の授業が多く、課題研究や大学・企業等での研修が充実していることが特徴です。自然科学全般に興味関心を持ち、国公立大学等の理系学部への進学を目指す生徒が多く集い、いわゆる難関大学に多くの者が進学し、多くの有為の人材を輩出してきました。また、数理科学科の卒業生には理系のみならず文系の難関大学へ進む者も少なくなく、数理科学科の教育システムが、文理を問わず、総合的な教養力を高めることに有効であることを実証していました。

 この間、本県公立高校の入学者選抜制度は、平成15年度に普通科通学区が取り払われ、平成19年度から推薦入試制度が廃止され、平成21年度から現行の制度となりました。数理科学科が学科を越えて受検可能という設立当初の意義はなくなりました。さらに、少子化が急速に進行していきました。今春、中学校を卒業した県内の生徒数は9000人を下回りましたが、これは数理科学科が設置された当時の半分以下の数です。結果として、中学校時から理数系を志望する生徒の絶対数が減少し、かつてに比べると、数理科学科の特性や利点が十二分に発揮されていないと言えます。

 一方、桐蔭全体では約7割の生徒が理系の大学に進学し、理系分野に高い資質を備えた生徒が普通科理系、数理科学科に分散しています。2年次から本格的になる普通科理系の教育システムでは、持てる力を十分に伸ばしきれていないとの懸念があります。

 これまで数理科学科で培われてきた教育システムの優れた点を普通科に取り入れ、桐蔭全体の理系教育システムを一本化することで、より質の高い教育を提供できると考えます。そこで、31年度入学生から、数理科学科の募集停止にあわせて、普通科の教育システムを以下の①~③によって、改定します。


 ① 読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力の修得、並びに文理両方の教科をしっかり学ぶことを通じて個々の資質・能力を伸ばすことが重要であるとの点から、新たな教育システムは5教科を中心とした総合的教養力の育成を重視します。

 ② 1年次から科目等の選択も可能とし、生徒が主体的に資質・能力を伸ばせる教育課程とします。例えば、理科の基礎科目は将来の可能性を考えて、3科目履修することを原則としますが、文系への進路が明確になっている場合は、地歴科目の選択も可能とします。

 ③ 2年次もしくは3年次からは、英語・数学・国語等の習熟度や進路希望をもとに、効率的で実効性のある学習集団を編成します。


 今回の改革は、一定規模の「太い幹の学習集団」にすることで、互いに高いレベルで切磋琢磨する学習環境を形成し、理系や文系のトップリーダーを多く輩出することを目的とするものです。


                                 (クラス数は仮定です。募集定員は秋に県教育委員会から発表されます)


(8月11日午後、学校改革についての説明会を和歌山市内「プラザホープ」で開催します。中学3年生及び保護者、関係のみなさん、また、桐蔭中学校の受検を考えておられる方等、多数のご参加をお待ちしております。詳細は今後、このHPでお知らせします。)

 

私たちはどう生きるか[平成29年度卒業式式辞](H30年3月1日)

『私たちはどう生きるか』                                             H30.3.1


 待ち遠しかった春の訪れを実感させてくれる春一番が吹き渡る今日(の佳き日)、この学び舎から新たな世界に向けて旅立たれる、普通科七十期、数理科学科二十五期の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
 保護者の皆様方、これまで大切に育んでこられたお子様が立派な若者に成長し、本日、桐蔭高校を卒業されますこと、お喜びと感慨は一入であろうとご推察いたします。心からお祝い申し上げます。本校での学びや経験が、一人一人の人間的な成長にお役に立てたとするなら、私ども教職員にはこの上ない喜びであります。
 また、本日、卒業生の晴れの姿を見守っていただくため、多くのご来賓の方々にご臨席を賜り、平成二十九年度卒業式を挙行できますこと、改めて感謝申し上げます。
  私は、桐蔭とは、と聞かれたとき、次のように表現してきました。宝石の原石のような生徒が多く集い、互いの個性をぶつけ合い、磨き合うことで、輝きを放つようになる学校である。桐蔭は、社会の発展に貢献したり、世の中を動かしたり、変えたりする有能な人材を輩出する学校、真に人を育てる力を有する学校であり続けたいと思っています。そういうことからも、桐蔭生の必要条件は、優れた能力や意欲とともに、自信と誇り、こだわりを持つことだと思います。三年前、皆さんはこういった条件を兼ね備えて入学し、三年間で、より高いレベルに挑戦し、可能性を高めようと取り組んできました。そのような皆さん方を間近で見て、「これぞ桐蔭」という思いを何度も感じてきました。
 卒業に際し、振り返って、皆さんはどのくらい夢や目標に近づけたでしょうか。何かを成し遂げるには、それなりの能力とともに、困難を乗り越える努力や工夫、覚悟が必要です。夢や希望は、願えば叶うというものではないし、力があって努力したとしても、実らないことは、この世の中にはたくさんあります。しかし、チャレンジすることに十分な価値があります。懸命に取り組み、どうしても乗り越えられないと悟ったとき、身の振り方を考える。このプロセスにとても意味があります。このことを通じて、自分の強みや弱みを直視し、自分自身との対話が起こり、さらにその延長線上で自身の真価を発見できる可能性があるからです。多くの人生は予定調和で進むものではないので、このことが桐蔭が掲げる「自らの人生を切り拓く人」につながるのだと思います。
 
 さて、昨年夏の発売以来、百万部を超える大ヒットとなった『漫画 君たちはどう生きるか』。これは、昭和十二年(一九三七年)、吉野源三郎氏が発表した同名の児童文学が忠実に漫画化されたものであることは知られています。その年の盧溝橋事件から、日本と中国の長い戦争が始まり、言論や出版の自由が厳しく制限されていきます。吉野氏は、自国第一の偏狭な考え方が闊歩するなか、次代を担う子供たちが、人間の可能性やヒューマニズムの大切さを見失わないことを願い、「人間とは」、「社会の成り立ちや仕組みとは」について、少年が生活の中で学び、発見し、成長していく様を描いています。誰もが思い当たるような出来事を通じて社会的認識を深めていく構成は、大人の心にも響く一冊として、現代まで読み継がれてきました。
 原作において貫かれているのは、人間の可能性や期待感です。人は自らの経験から学び、認識を深めていきますが、一人一人のそれには限界があります。しかし、人間は言葉や文字を操ることができるので、いろんな人の、いろんな場面の経験を比較し、それを統合することができます。それが学問で、これまで人間が進歩してきた所以であると、学びの本質と重要性を教えてくれています。
 また、人間は元来、何が正しいかを知ることができるともに、正しい理性に従って行動できる存在だと述べています。しかし、常に正しいおこないができるわけではなく、道から外れることもあります。その時、苦しい思いに苛まれるのは、本来、自分はこうすべきだったということをわかっているからです。そのことにきちんと向き会えば、二度といやな思いはしたくないとの決意、新たな自信を湧き出すことができるということです。自分の生き方を決定できるのは自分であり、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っている、そのことをしっかり認識して、人生を歩むべきだということを示してくれています。

 平昌オリンピックのスピードスケート女子500メートルで金メダルに輝いた小平奈緒さんが、「金メダルをもらうのは名誉なこと。でも人生をどう生きるかが大事。」と語ったことは、皆さんの記憶に新しいと思います。「どう生きるか」を考える上で、社会とのつながりやまわりの人への貢献を意識して、自らを振り返り、評価することが大事です。そこで、様々な分野で成功を収めた人に「今のあなたがあるのは何が一番大きいか」と、どこに成功の要因があると感じているかを尋ねたとします。「持って生まれた能力」と答える人もいるかもしれませんが、「一生懸命に努力してきたこと」や「諦めない強い意思を持ち続けたこと」と認識している人が多いのではないでしょうか。
 成功には、その人の才能・努力・意思等を包括した内的なもの、いわゆる“実力”が大きな要因となりますが、“実力”ある者が常に成功しているわけではありません。競争相手が少ない場合、“実力”通りに勝敗が決することも多いでしょうが、競争への参加者が増えてくると、トップ層の“実力”が拮抗するようになり、外的なもの、例えば、“運”の有無が勝敗を決することも多くなると言われます。
 特に、近年、ビジネスの世界では、“運”の果たす役割が注目されています。それは、輸送や情報インフラの発達で、「良いね」と感じたり、評価されたモノやサービスを、瞬く間に多くの人が手にできるようになり、「一人勝ち」が生じやすくなっているからです。
 そういう意味で、成功した人は幸運をうまく引き当てた人と言えます。しかし、自分では、成功は自分自身の努力の賜物と思う傾向が強く、成功によって得られた冨は自身の努力に対する当然の報酬だと意識します。富の集中と格差が広がっているという、今日の社会経済問題の背景には、このような意識もあると思います。
 ただし、成功を努力次第と考えることを、いけないと言っているのではありません。特に学生時代は、そう思うことで、より難しい課題や困難に粘り強く取り組め、着実にステップアップしていくことができるからです。努力は、自分の意思で、将来の成功のために行使することができる、やる気と表裏一体の関係にあります。
 しかし、自分の幸運をさほど意識しない人は、他人の不幸に気付かないことにもなりがちです。人が成功出来なかったのは、その人の努力不足、自己責任だと捉えてしまいがちです。そうすると、社会の様々な場面で寛容さが失われ、苦しむ人に寄り添って考える力が弱くなります。努力は誰でもできると思いがちですが、例えば周りの大人が「努力しても無駄」と思い込んでいる場所で育った子供は、希望を抱くこともしないし、努力の仕方を学ぶ機会にも恵まれません。努力が有意義、大事だと体得できる環境で生まれ育つことは、実はそれだけで幸運なことなのです。
  人生を振り返って、自分が幸運であったと気付くことは、その人にとっても、社会にとっても、重要な意味を持つと言われます。「自分の成功は、努力にプラスして、運が良かった。」と感謝の意識を持てるようになると、その人が感じる幸福度は格段に増すとともに、次世代を担う子供達への支援や投資、納税、慈善事業など、社会貢献にも前向きになり、みんなが住みよい社会の形成が期待できるからです。
 「努力! 天は自ら助くる者を助く」と、本校OBである野村吉三郎氏の箴言碑に刻まれているように、努力は、自らの今後の可能性を拡げるための重要なキーワードです。同時に、成し遂げたことについて省みる際には、恵まれていたことを感謝する謙虚さも必要だと思います。
 つまり、これまでの成功は幸運に恵まれたもので、これからの成功は自分の努力で成し遂げるものと意識することでは、ないでしょうか。
 皆さん方は、この世の中で、少数派の恵まれた人と言えます。裕福でやりたいことに挑戦できる時代や社会に暮らし、努力することの意義や大切を身をもって学んでこられました。
 そして、この桐蔭で、高い可能性を持った友達と出会ったことで、ますます幸運になる可能性を得たと思います。皆さん方が、今、この場にいるのは、優れた才能や能力、たゆまない努力、諦めなかった強い意志の賜ではありますが、同時に、これまで幸運であったことに思いをはせ、感謝の心も持ってほしいと思います。それが、あなたのこれからを真に豊かなものとし、きっと、新たな、大きなチャンスをもたらしてくれるはずです。

 最後になりますが、本日、私たち、教職員が幸せな気持ちを感じているのは、まぎれもなく、皆さん方とこの桐蔭で三年間を共にし、一人一人の確かな成長を間近に見ることができたからです。この感謝の気持ちを、卒業生の皆さん一人一人に贈りたいと思います。
 卒業おめでとう、そしてありがとう。春の強い風にのって、元気に翔び立って下さい。


(平成29年度卒業証書授与式 式辞)

理性を使う勇気[図書館誌『芸亭』](H30年2月28日)

理性を使う勇気                     H30.2.28


 昨年1年間に出版された書籍・雑誌の総売り上げ額(市場規模)が、ピークであった21年前の約半分に落ち込んでいる。特に雑誌類の落ち込みが激しく、これまで市場を牽引してきた「漫画の単行本」が売れなくなっている。低迷する紙の本に対し、電子書籍・コミックの市場は拡大しているが、出版業界全体の縮小に歯止めはかからない。また、全国の小・中・高校生を対象に実施している「学校読書調査」において、近年、雑誌が読まれなくなっていることが明確になっている。その原因や背景として、インターネットの興隆で、得たい情報が瞬時かつ簡単に入手できるようになったことや、一つのブームの賞味期限が短くなっていること等が考えられる。
 近年、学校図書館を多くの生徒にとって身近なものとするために、入り口付近の雑誌コーナーに漫画本を揃える等の工夫をしている学校があったようだが、図書館に生徒が集うことに功を奏しているという話はあまり聞かない。
 そもそも、図書館は敷居を低くする必要は無いと私は思っている。学校図書館とは、その学校がどのような学びを大切にしてきたか、生徒に何を学んで欲しいか等、“学校としての知のレベル”を表している。桐蔭の図書館の蔵書は41,770冊で、その4分の1は文学だが、歴史、社会科学、自然科学などが充実しているのが桐蔭の特徴と言える。図書館の書架をグルっと回って眺めることで、これまで人類が築いてきた英知を俯瞰することや、世の中にどのような学問分野が存在するのかを知ることができる。それはamazonのお薦めとは、全く次元の異なる世界である。
 さて、子供の頃、本に親しんでいても、高校生になると本を読まなくなる傾向がある。「本を読むよりも、やらなければならないことがある。」、「役立つかもしれないが、読まなくともさほど困らない。」等々の声は、単なる言い訳ではないと思う。スマホ等の影響は多少あるかもしれないが、それらが無かった時代においても、本を読まない高校生は少なくはなかった。青年期に読む本は手強くなっていることと、本を読むことの必然性が最も脆弱になりがちな年代であるのかもしれない。
 本を読む営みとは、自分の頭で物事を考える力と密接に関係している。読書を通じて、自分が知らなかった世界に足を踏み入れることは、「人生とはそういうものだったのか」と納得できることもあるが、より謎が深まったり、自分の弱さや甘さに向合わさせられるなど、楽しいことばかりではない。しかし、自分で考えられる人、分かろうとする人は、さらに新たな世界を求めて、新たな本との出会いに歩みを進めていくことができる。
 カントは『啓蒙とは何か』において、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない人は、いつまでも未成年の状態にとどまる。この状態から抜け出るには、知る勇気を持つ、すなわち、自分の理性を使う勇気を持つことが大事である。」と述べている。
 過剰ともいえる情報サービスにさらされている現代の私たちは、「与えられた環境」に浸っていて、不自由のない生き方をしているように見える。しかし、自立した思考が衰弱していて、与えられた狭い世界の中だけで解決しようとし、すぐに結果が出そうなことを求める生き方になりがちである。一見、自由に見える生き方は、自分というものが定まらないために、フワフワしたものとなっていて、実は窮屈なもので、長い目で見て精神的にも良くない影響を与えている。自分をしっかり根ざしたものとするには、自分の理性を働かせることを意識することが重要である。理性を活性化するための有効な手段として、青年期の今しか読めない本に挑戦することを強く勧める。

 

 (桐蔭中学校・桐蔭高等学校図書館誌『芸亭』 寄稿)

「一期一会」を高める [PTA新聞『とういん』](H30年2月28日)

「一期一会」を高める                   H30.2.28


 7年前に始まった「ロボットは東大に入れるか(東ロボ)」プロジェクトは、東大入試を突破できるコンピュータプログラムの開発を目指したが、2年前に断念される。AIは問題を解き、正解を出しているが、問題文を理解しているわけではなかった。問題文に含まれる複数の語句に、どのような結びつきがあるかをビッグデータをもとに検索し、確率的にありそうな選択肢を選び出す作業をしているにすぎなかった。
 しかし、東ロボが全私大の約8割で、高い合格可能性となる模試成績を収めたことが、多くの高校生の読解力は、文章を本質的に理解できない東ロボと同程度以下ではないかとの警告を発することになった。このままでは、近未来に、深刻な失業問題と、必要とされる労働の担い手不足が同時に起こると懸念され、大学入試改革や学習指導要領改訂を後押しすることになった。
 一方、今のAIは、言語の本質的意味を理解できないことから、「一期一会」のセンスが求められる高度な窓口業務などは出来ないことも明らかになった。
 アフリカで長くゴリラの研究に取り組んだ、京都大学総長の山際寿一さんは、相手と向き合い、目の動き、顔の表情、仕草を見つめ合う中で、共感や同調を得ることは、安心や満足感につながり、それがコミュニケーションにとっての大きな役割や意義を有していると言っている。このことは、日々の出会いを一生に一度のものと心得て、互いに心を研ぎ澄まし、誠意を尽くせと教える「一期一会」に通ずると思う。
 「一期一会」を高めるためには、相手が何を感じているかを意識するとともに、自分の思いをきちんと伝えようとする、瞬時の対応力が鍵となる。これは桐蔭生の課題の一つである。まずは日々の挨拶や所作、仕草を大切にすべきであろう。近未来で、光り輝く存在であるために。

(PTA新聞『とういん』 寄稿)

第35回桐蔭展の開催にあたって(H29年12月7日)

第35回 桐蔭展の開催にあたって     29.12.7


 年の瀬恒例の桐蔭展を、皆様方のご理解・ご支援により、今年も開催することが出来ました。本展は昭和58年度の第1回開催から数えて35回目となります。

 生きていく中で、感動したことや感激したことを自分の中だけに留めず、様々な手段で表現し、周りの人達と共感していく。このことは、人が心豊かに生きていく上で、とても大切なことだと思います。文化の創造は、常により意義あるものを自分ないし自分たちの手でつくってみたいと拘ることであり、欲しいものは何でもお金と交換できると考えてきた文明社会の行き詰まりに一筋の光明となるとも言われます。

 桐蔭展には、生徒が美術・書道・家庭等の授業で制作したものと、美術部・書道部・華道部・写真部等の部活動での創作品を中心に、全スペース余すところなく展示しております。その展示作品の多くは未熟なものではありましょうが、限られた時間内で若い感性とエネルギーが注ぎ込まれたものであります。

 吉田兼好(兼好法師)の随筆『徒然草』の第百五十段「能をつかんとする人」の冒頭に、次のようにあります。

 能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
 (芸能を身につけようとする人は、「うまく出来ないうちは、うかつに人に知られないようにしよう。内々でよく練習して上手くなってから人前に出たら、たいそう奥ゆかしいだろう」と常に言うようだが、このように言う人は、一芸も身につくことは無い。)

 だから、十分な出来映えでなくても、積極的に発表の機会を得ることは意義があります。
 生徒のもつ可能性や創造力の豊かさを感じ取っていただき、彼らが更なる高みを目指して精進するよう、ご声援いただきたく存じます。
 また本展は、卒業生や保護者の方々、教職員にもご参加いただき、「チーム桐蔭」の文化的交流の場となっていることを申し添えます。

ポスト研究開発 桐蔭キャリア教育の深化(H29年9月1日)


ポスト研究開発 桐蔭キャリア教育の深化        29.8.24

 

  本校は「進学を主とする普通科系高等学校におけるキャリア教育」をテーマとして、平成25年度から研究開発学校の指定を受け、全校あげて取り組んできた。その主な成果として、進学校におけるキャリア教育のあり方や可能性を示すことができたとともに、バックワードデザインによる教科指導など、キャリア教育を軸としたカリキュラムマネジメントの考え方が芽吹き、様々な教育活動を構造化・体系化する準備が整ったことがあげられる。また、学校設定教科「キャリア桐の葉」の学びを通じて、生徒は肯定的な自己変容を感じるとともに、本校教育活動全般に対する保護者の理解や賛同も進んでいる。
  学びへの適応能力が高い本校生徒の大人度を高め、しっかりした将来展望を抱かせて次のステップへ送り出すためには、キャリア教育を主柱とする桐蔭の教育全体をより高いレベルへ引き上げることが求められる。このことは、研究開発学校としての指定が終了するこれからが正念場で、桐蔭キャリア教育によって生徒の「学ぶ力」が獲得され、高い志や目標を持つ生徒を育てるに至った結果として、進学実績の向上へと波及し、進学校におけるキャリア教育の普遍的な価値につながると考えるからである。

  一方で、研究開発が一段落した今、これまで推進役を担ってきた教員と他の教員の間に、キャリア教育への意識や実践面で乖離が少なからずみられる。このことは、キャリア教育の中核をなす「キャリア桐の葉」の指導だけではなく、キャリア教育の重要な場とされる、全ての教科の授業、特別活動、部活動、生徒指導、進路指導においてもあてはまる。この状況は、キャリア教育をより充実・発展させる機会を見過ごしたり、これまでに培った経験や手法等を十分にいかしきれないことにつながる。
 桐蔭キャリア教育をさらに深め、教育的成果をあげていくために、いくつかのの課題と改善点を以下に記す。そのキーワードは「見える評価」、「取組の進行管理」、「教員の本気度」である。

 生徒の大人度を高める指標として「付けたい力30」をピックアップし、桐蔭キャリアプログラムの実効性を測る指標と定めている。この力は、中核となる「キャリア桐の葉」だけではなく、学校での様々な指導・支援の機会や、生徒と関わる様々な場面で育まれるものとされている。重要なことは、生徒自らが評価し、何が課題でどう改善すべきかを気づかせることである。そのために毎年度末にルーブリック評価等を行わせ、それをもとに教員と面談することも有効な手法である。生徒が次年度で改善・成長しようと思う事については、いつまでにどの程度という目標を立てさせ、生徒自らが進行管理することも極めて重要である。
 一方、教員も、この「付けたい力30」をどのような場面で指導するのか、結果としての生徒の変容や成長をどう評価するかを、日々、意識し、実践することが重要である。このことが、桐蔭の様々な教育活動をキャリア教育を柱として、有機的に繋げ、まとめることになる。
 教員が「付けたい力30」の一つ一つについて評価することは、現実的ではないかもしれない。この30の力を集約・分類して、例えば「独り立ちできる能力」、「人や社会とつながれる能力」、「課題を認識し、解決できる能力」の3つのカテゴリで評価する方法もあるだろう。
 個々の指導において、桐蔭生は正解を求める傾向があることから、葛藤させる経験も大事で、葛藤を通じて、自己をコントロールする術や、より高い目標へ挑戦する強固な意思や意欲が育ち、高いレベルの価値観や規範意識につながることが期待できる。また、適切な負荷を与えたり、環境の変化を経験させることも、順応性や適応能力を高める上で不可欠であるとともに、良い習慣を心と体に覚えさせることは、自信を持たせる上で重要である。
 全ての教員が、自らの持ち場における指導や関わりで、生徒が変容し、大人度を高めていくか、前向きな展望と弛まない取組や工夫改善をすることが重要である。

 各教科が取り組んでいる桐蔭ST(スタンダードテスト)は、より良いテスト結果となるために指導の内容や方法を考え、授業を設計するという、バックワードデザイン本来の目的には十分、達していない。STを作成した時点では、教科内で目標設定等について活発な議論が行われ、その趣旨や目的についての認識が深まったと思う。しかし、数年が経過し、年度末に1回実施している現状においては、その活用や効果は過年度生との成績比較資料にとどまっている。授業をよりアグレッシブに変えていくためには、短いタームでのバックワードデザインが必要で、教科書の単元や章ごとにゴールを設定し、効果的な評価システムを開発、実施すべきである。定期考査、宿題考査、模擬試験(外部検定も含めて)等にも、STの一役を担わすことは可能であり、結果分析と指導方法の改良を速やかにつなげることこそが重要である。

 入学直後の新入生アセンブリーで用いられる「桐蔭の学び」は、各教科の学びが将来にどう生かされるかを理解させれば、日々の学習意欲を向上させることができるという視点で作られた秀作で、桐蔭生の学びのバイブルともいえる。
 教員にとって、「桐蔭の学び」を作ることが、何を指導するかを議論し、確認することになり、極めて重要なプロセスであった。このことについては、常に教科内で議論は続けなければならないものである。生徒の学習意欲の向上という点では、毎授業や単元の最初に、授業者が自らのスト-リーを作って、生徒に何を学ぶのかを意識させ、終わりに学びの振り返り、生徒自らが学んだことを再構築するという展開も重要である。

 キャリアプランに関しては、入学後の早い段階で「桐蔭3年間のキャリアプランニング」に取り組ませることが重要と考える。桐蔭での他の生徒との関わりや、3年という時間経過(成長プロセス)で、如何に自分の高校生活(人生の重要な一区間)を充実・発展させるか、集団の中で自らが個性や存在感をどう発揮しようとするのかを意識させながら、3年間を見通させる。作成したプランは学年末など一定期間後にふり返らせ、修正させていく。「桐蔭3年間のキャリアプランニング」には、部活動と勉強との両立、文理選択、志望校の設定など、現実的な関門があり、挫折や失敗からのリカバリーも含まれ、その延長線上に、15年後、20年後の自分をイメージさせることが重要と思う。
 人生や生活に幸福や満足を感じる上で、キャリアプランを“やりたいこと”、“やれること”、“やるべきこと”の3つの点から、分析的にとらえることが重要である。経験の少ないなかでは、“やりたいこと”が突出したり、“やれること”が非現実的であったり、自信が持てないことから、目標設定から目をそらす場合もある。特に、“やるべきこと”については、担うという義務的な側面だけではなく、人々や社会にどう貢献できるか、いわゆる利他の心を意識させることが重要で、このことについては桐蔭リーダー塾等、社会人講師から学ぶ意義は大きい。

 本校のキャリア教育の更なる深化には、教員一人一人の教科指導力とファシリテーション能力の向上が必要不可欠である。今回の研究開発において、「学力」がキャリア形成上大きなウエイトを占めると考え、桐蔭FD(ファカルティ・ディベロプメント)と名付けた質の高い授業の提供を組織的に取り組んできた。このFDをさらに充実させ、「生徒が知的感動を覚える授業」、「生徒が自ら学ぶ習慣・力の確立へとつながる授業」、「基礎的学力を確実に習得させる授業」の3つ目標を全教員が同時平行的に追求していくべきである。特に、自ら学ぶ習慣・力に関して、隅々まで全て教え込むことではなく、教科書等を読み解く力を育てることを重視すべきである。さらに、生徒に授業や単元の最初に何を学ぶのかを意識させ、終わりに学びの振り返り、生徒自らが学んだことを再構築する展開も大事である。授業中、生徒が“頭”をよりアクティブにするには、教員の発問の質、生徒との問答が重要であることは、言うまでもない。
  教員のファシリテーション能力を高めることは、単に授業の在り方や手法を変えるだけではなく、生徒の能力を信じ、主体性を引き出すことにつながり、教員と生徒の関係性をドラスティックに変える可能性があり、そのことはキャリア教育の究極の目的とも合致する。
 
 最も重大なことは、桐蔭教員集団の意識変革である。本校教員は帰属意識が高く、指示されたことには誠実かつ真摯に対応する。一旦、形が出来上がってしまうと、こなすことに終始し、自らの蛸壺に引きこもってしまうような面もある。常にアグレッシブな刺激を与え続けないと、形骸化し、もとの状態に戻ってしまう恐れ、これが、本校教員の組織文化で、最も大きな課題である。
  作り上げたキャリア教育カリキュラムを完成したものと捉えず、今後も、修正・開発を継続的に行うことが重要である。なぜなら、その営みを通じて、主体的に考え、研鑽し、学校全体をリードする教員を絶えず生み出していくことになり、桐蔭教育の改革発展につながるからである。生徒は、その教員の姿から多くを学ぶ。

焦らず、弛まず、怠らず(H29年7月13日)


『自らの人生を切り拓く力』は桐蔭で鍛えられる(H29年6月30日)

『自らの人生を切り拓く力』は桐蔭で鍛えられる


 今年は、昭和23年の新制高校への切り替わりから70年目、来春の卒業生は桐蔭高校70期生という節目にあたります。また、旧制和歌山中学校創設からは139年目となります。
 最近、ある週刊誌に“旧制一中の系譜を受け継ぐ公立名門校の実力”という特集が組まれました。各都道府県ナンバーワンの旧制中学校を引き継ぐ公立高校の教育内容や進路状況、卒業生を特集したもので、桐蔭高校も取り上げられています。記事によれば、ほぼ全ての旧制一中に共通する教育理念が「幅広く教養を修め、身体を鍛え、文武両道を目指す」ということで、旧制一中はひ弱なエリートの養成ではなく、国や地域社会を担う気概と実力を兼ね備えた人材育成という使命を帯びていたと紹介されています。
 幼少期の子供の育ちには、「背中の教育」と言われるように、親の振る舞いや姿勢が大きな影響を与えますが、青年期の人格形成には学校の校風・伝統等が大きな意味を持ちます。どのような仲間や先輩、先生と相まみえるか、このことは、その後の人生に決定的な影響を与えることも少なくありません。
 桐蔭は、強い意志を持った、宝石の原石のような生徒が多く集う学校です。高いレベルの「文武両道」に挑戦する者、感性や創造力を高めようとする者等、多様な個性がぶつかり合い、磨きあうことで、原石は輝きを放つようになります。
 一方、近年、良い意味での活気溢れる“ゴツゴツ”した生徒が少なくなっていると感じます。これは、現代の少子化社会と無関係でないと思います。そこで、桐蔭は4年前から『大人度を上げる教育』として、キャリア教育の充実に取り組み、桐蔭らしさの維持・発展に努めています。
 学校は夢や希望を語る場であり、絶望や諦めを体得する場ではありません。このことは、夢想する場やオーバーケアな環境であれと言っているのではありません。学校は、日々、新たな夢や希望と遭遇できますが、取り巻く状況や取り組むべきことも変わっていきます。例えば、勉強する内容は日々難しくなり、友達との関係性も普遍ではありません。
 子供たちは、しっかり勉強したい、部活動を頑張りたい、友達と仲良くしたいという前向きな気持ちとともに、様々なプレッシャーと日々、向き合っています。この負荷が、人間的に成長出来る大きなきっかけとなります。一生懸命に何かに取り組み、解決あるいは改善できたとき、“結果的に”成長し、生き抜く力の獲得につながっているというのが実態です。適切な負荷や適度に変化する環境、これが子供たちの真の成長にとって、とても大切なことなのです。
 環境や境遇の変化に合わせて、性質や行動が変わっていくことを順応や適応と言います。生物進化の歴史から、過酷な環境変化にうまく順応や適応できた種が栄え、生き延びてきたことがわかります。
 これからの社会、人工知能の発達・実用化など、激動・激変の時代になると予想されます。世の中が大きく変わる時には、思いもよらないピンチと思いがけないチャンスが待ち構えています。どのようなリスクにも対応できる備えや能力を、あらかじめ身に付けることは現実的に不可能です。むしろ、ピンチにおいても何としても生き延びるという強固な意志と行動力、チャンスを逃さないという執着心や柔軟性が、人生を大きく左右することになります。
 つまり、激動・激変の時代を生き抜く重要な資質として、高い順応性や適応能力が求められます。それらは、学校生活で、学ぶことに誠実であるとともに、常に前に進み、全力を尽くす姿勢を貫くことで鍛えられます。それが自らの人生を切り拓く力の本質であると考え、今後も桐蔭は、そのことを大事にして、教育活動に取り組んでまいります。      

                                                                                    (PTA新聞『とういん』 寄稿)          





 

感動する日々を(H29年5月2日)

感動する日々を


   桐蔭賛歌の冒頭のフレーズ「緑滴る 校舎を仰ぎ」にぴったりの時季となりました。萌黄色をはじめとした春の彩りの美しさには、生命の力強さを感じ、勇気が与えられます。

   校門を入って正面、桐の木に咲く紫の花は満開です。その花言葉は「高尚」で、知性や品格が高く上品なことを意味します。「高尚」は知的探究心を高めていくプロセスや、その結果として身についていくものとされ、環境が重要な要因となります。 桐蔭に着任して一ヶ月、様々な活動を目の当たりにして、桐蔭生のポテンシャルの高さをあらためて感じ入っています。特に、新入生歓迎会は「春の文化祭」といえる内容で、各文化部のパフォーマンスや生徒会執行部の企画、どれも優れたものでした。「これぞ桐蔭」という感動が心に押し寄せてきた新入生が多かったと思います。 感動は、パワーや勇気を与えてくれます。人生において、素晴らしいものに出会い、その価値に気づくことが感動を生みます。生徒が「知的なるものへの感動」を覚えられる授業づくりを全校あげて取り組みたいと思います。その感動は、将来にわたって自ら深く学ぼうとすることの源泉となるはずです。



校長あいさつ

                                                            

             

校長あいさつ



    和歌山県立桐蔭中学校・桐蔭高等学校

校 長  清 水 博 行 

       
 桐蔭のホームページにお越しくださいまして、ありがとうございます。

  桐蔭は、明治12年、和歌山城南隣の岡山に設立された旧制和歌山中学校に始まり、明治22年からは城内西の丸広場に、大正4年からは現在の吹上の地と、お城に臨む市内中心地で、その伝統「和中・桐蔭の流れ」を受け継いできました。
 旧制和歌山中学校から138年、戦後の学制改革で桐蔭高等学校となってから69年が経過し、併設された桐蔭中学校も11年目を迎えます。この間、高邁の志を有した有為な人材を輩出し続けたことが桐蔭の「伝統」であり、4万人に達する卒業生は、政治・経済、医療、科学技術、教育、芸術・文化、スポーツ等様々な分野で、本県のみならず、日本さらには世界を舞台に活躍しています。
 また、平成25年度から文部科学大臣の指定を受けてキャリア教育の実践的な研究開発に取り組むなど、常に新たな挑戦、「改革」を続ける学校でもあります。さらに、生徒及び関係者が抱く桐蔭への帰属意識は高く、それが「チーム桐蔭」という力の源泉になっています。
 
 どのような校風や校訓のある学校で学ぶか、学生時代にどのような仲間や先輩、先生と相まみえるか、このことは、その後の人生に決定的な影響を与えます。基礎的な能力や人間としての裾野のひろがりは、大学入学前、つまり高校までの環境で決まるといわれます。高いレベルでの「文武両道」を目指す若者が集う桐蔭は、人としての素養を高めることにおいて優れた学舎であることは、多くの卒業生の活躍から見ても確信できるものです。

 19世紀英国の哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』に次の一節があることは良く知られています。
 It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

 桐蔭の使命は、中途半端な妥協や自己満足ではなく、課題意識を失わずに身を焦がすような覚悟をもって挑戦し続ける生徒を育てることにあり、それが「自ら人生を切り拓く人を育てる」という真意であります。桐蔭がその期待に応えることができるかどうか、和歌山県の将来を左右するとともに、わが国の未来にとって重要であるという責務を胸に、全力で取り組んでまいります。

 もとより微力ではありますが、生徒・保護者はもとより、地域の方々に夢と希望を与えられる学舎となるよう、教職員とともに精一杯努力する所存でおります。どうか本校のこれからの教育活動にご関心を持っていただくとともに、より一層のご支援とご協力を賜りますよう、よろしくお願いいたします。

                                                                          平成29年4月

 




 


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